みんな大変なんだからっていう人は悩みを聞ける器を持っていないから

日本人あるあるな話。

しんどい、疲れた、大変、もうやりたくないと嘆く言葉を言うと100%近い確率で返ってくる言葉が『みんな大変なんだ』『私だって大変だ』ということ。

 

時にはこの言葉は叱咤激励にもなるが、本当にしんどい人や、別に相談したいわけではなく吐き出しているだけの人に対してもこのように言ってくる人たちについて少し思う事があるのでちょっと嫌な書き方もしている部分もあるが自分の見解を書いていきたいと思います。



皆大変なんだといって自分目線で相手の悩みを測る

疲れた~しんどい、忙しい、大変だなんていうと”そんなのみんな同じだ”とか”僕・私だってしんどい”っていう人って多いです。

でもその言葉って、その人目線なんですよね。

 

今私自身が大変なんだと発信しているのに、それを誰かは分からないその他大勢目線に置き換えて皆大変だというのは話が違うんじゃないかと思います。

 

こちらがやっとの思いで辛いことを申告したとする。

そのことに私だってつらいことがあったなんて言われると、私の話をしているのに何でこの人は自分の話に置き換えて私の辛いをねじ伏せるんだと思う事がある。

 

人ぞれぞれ辛いと思うレベルも、ポイントも過去も何もかもが違うのに『つらい』という言葉だけでみんな同じだと言い、もしくは自分だって周りだってつらくて大変なんだからそれくらい耐えろともっともらしいことを言っている人たちは、こちらからするとやっと吐き出せたのにそのはけ口の行き場を奪われ、尚且つ追い詰めていることに気付いているのだろうか。

 

地球の裏側では餓死してしまう生きられなかった子供たちがいるんだとか今言われてもどうすることもできない。

 

こういうことを軽々しく例えてくる人は自身の肉眼では見たことも体験したこともない。

インターネットや書籍からの情報で知った世界レベルの問題を持ってきて比較する人もいるが、そんなのこちらだってもちろん知っている。

 

だけど今私が大変なのは、しんどいのは事実なのにそんなこと言われてもきれいごとにしか聞こえないわけです。

 

そんなに周りの人間が~、世界で死んでいく人が~と言うならばあなた自身でその人たちを救いに行けばとも感じます。

 

大変なんだと嘆きたい人は誰もあなたの辛さや周りの大変さに興味なんてないんだ。

そんな余裕なんてない。

 

中にはただ吐き出したいだけで、こちらの大変さなどに別に興味を持ってもらおうと理解も求めていない場合もある。

 

ただ吐き出して言いたいだけ。

それなのにいちいち突っかかってきて他の者と比較してくるのが不快でならないのである。

 

中にはほんとにつらくて申告する人もいるし、会話の一端のような感覚でポロリと言う人もいる。

それらに対して過剰に反応して比較を作り自己満足な励ましをする。

その人は相手を想って励まそうともしているつもりかもしれないが結果的に個人の想いを無下に扱い追い詰めている。

 

こんな励まし方ははっきり言っていらないし、その人の勝手な思い込みでの恩を売っているだけのお節介な行為なのです。

 

周りが大変だったら自分は大変だと言ってはいけないのか

周りにいるみんなも大変なんだって言われるとじゃ自分がしんどいと思ったときに吐き出してはいけないのか。

 

耐えて耐えてもう堪え切れない時にしんどいことをしんどいと言ってはいけないんでしょうか。

『みんな大変だよ』と言われると辛いことを辛いっていう事がいけないことなのかと感じてしまう。

 

恐らく中にはあなただけが大変な思いをしているわけではなくみんな大変な思いを抱えて生きているんだよと励ましの意味を込めている人もいると思うけど、はっきり言って逆効果です。

 

皆大変だよ、うん、だから何なのって感じなんですよね。

この『みんなも大変だ』と言う言い方ってまずみんなって誰なのか、どんな風に大変なのか、とても抽象的ですよね。

すごくずるい言い方だと思う。

 

励ましの意味で使っているならばそれはあなたが勝手に良かれと思い込んでいるだけの押しつけがましい応援表現でしかない。

 

もし周りの人間も苦労しているからあなたも頑張ってと叱咤したいならば、まず周りの人間ではなくあなた自身の話をして自分はこうやって乗り越えたと話す方が説得力がある。

してはいけないは自身の苦労話と相手が『今』抱えている大変な事情とを比較してはならない。

相手のために励まし元気づけたいならばあくまでアドバイスとして使うべ気だと思います。

 

みんななどと言われるととても抽象的でそして大衆を意味しているので範囲も規模もでかい。

それを個人の悩みと比較するのって嫌がらせではないかと、本当につらいときに言われると感じてしまうわけです。

心に余裕がないですからね。

 

また一方では辛かったらため込まず吐き出していいんだよという人。

しかしそれを言うと皆大変なんだとどこかで返ってくる。

 

こんな振り回される環境で弱音なんてはけないのが現代だと思います。

 

個人的に思うのはやっぱり辛かったら辛いっていうべきだ。

しかし理解しておかないといけないのは、今の時代ほとんどの人間が他者の苦労や大変な事情を理解しようとはしない。

それを踏まえていないから、みんな大変だ、忙しいんだ辛いんだとか言われてデカいダメージを食らうかもしれないという事でしょうか。

 

周りがそれはみんな同じというその他大勢の尺度で自分を測ってきても本質的にはこちらの辛さなんて一切理解していないんです。

表面だけ見て、辛さのレベルを想像してみんな同じだなんて言われてしまえばはっきり言って笑えてきます。

 

こんな時だけみんな同じなんだから、頑張ろうなんて都合がよすぎるとも感じます。

 

いざという時は自分で何とかしろと言い、自分の時もこれくらいクリアしてきたと比較し、個人の問題なのにそのそれぞれ違う問題を相手が勝手に推し量って決めつけてこれくらいやれと突き放す。

そして最後には辛いのは同じなんだからって…そこは同じなんだって勝手すぎやしませんか。

 

面倒ごとは突き放し、辛いことを理解しようともしない人が増えてしまっていてそれが当たり前だと思っているのか。

 

貴方が辛いと思っていることは一大事であり、他人が何かと比較したとしても気にするべきではないと思います。



個人の過去を知らないのにみんな同じだと思うのはおかしい

とても極論なたとえ話をします。

 

例えば私が戦争をしている国で戦争を体験してきたバックグラウンドを持って日本に今いるとする。

そんな話をしなければ普通に生きてきた日本人に見えるわけです。

 

私の過去を知らない他人に私がポロリと”昔はつらかった”なんていうと何にも聞かずに

“みんな生きてれば大変なことなんてたくさんあるよ。”

と言われることも多いだろう。

 

人それぞれ過去が違うのに何も聞くこともせず日本にいれば大体こんな程度の大変さだろうと勝手に仮定して私の過去を聞くこともせずその人の中で大変さを決めつけている方々はいったい私の何を知っているんだと思う。

 

しかし戦争を体験したと知ると態度は一変するだろう。

戦争なんて体験しがたくそして今の日本人にとっては想像を超える非常につらいものとなるからです。

自分が理解できないと分かった大変さには人は言葉を失うが、想像しうる大変さだと分かることには上から目線である。

 

戦争は本当に極論であるが、虐待を受けてきた、いじめにあっていた、親が離婚していた、親族が早くに亡くなった。

重い過去を持っているかもしれないのにまず聞こうともしない人が多いように思う。

 

誰もが体験する辛さでもその人にとっては一大事

私個人の考えとしては他者が聞いても明らかに大変そうだったことが”ものすごく大変だ”と言いたいわけではない。

 

受験に落ちた、友達と喧嘩した、恋人と別れた、仕事で失敗した、足を骨折したと人間生きていれば誰もが通りそうな不幸や困難もその人個人からすると本当に一大事なわけです。

 

これらに対して

“分かる!私もそんな過去があった”

と共感されるのはまだ良いのですが

“私の方がつらい過去を持っている。

そんなの生きていたらみんな思うよ”

という言い方で比較する人って何故その場で辛いと申告している人を『自分もしくは周りの人間と比べればあなたの大変さなんて日常的でほんのわずかなことよ』と言うような言葉で返してくるのだろうか。

 

結果的にあなたは大変な状況ではないと否定しているわけです。

その人個人が自分自身で大変だ、辛いんだ、苦しいんだと決めることを何故他者が勝手にあなたの辛さは世間的に見てそこまで大変じゃないよと決めつける風潮があるのか…。

 

本当に真剣に悩んでいたならばこの返事は酷いように思います。

ひねくれた考えかもしれないがあなたの悩みには価値がないとも捉えられてしまうように思うからです。

 

この結果誰かに相談することを拒み、一人で抱え込む日本人が増えているんじゃないでしょうか。

中にはそのまま視野が狭くなって悲しい結果を作る人、誰かに危害を加えたいと悪心を持ってしまう人ができてしまっているように思う。

これは誰もどうせ自分の事を理解してくれないからとゆがんだ感情が生まれることに直結しているからです。

 

もし誰かの悩みを自分レベルで聞いてみてそんなことで悩んで辛いと思っているのかという事でもとりあえず聞いて否定はしない方がいいのではないだろうか。

 

また自分はこうだったなんて相談者からするとどうでもいい話なのです。

貴方と私は別個体であり、違うシチュエーションで違う課題や問題を抱えているのにその大変さだけが同じなんてありえないわけですから。

 

比較をしたとしても相手の辛さを緩和させれるアドバイスや内容である場合はもちろん良い。

しかし比較した結果相手を否定するならば初めから

“私は相談に乗れない、話を聞いてあげれない”と見栄を張らずに言って欲しいものです。

 

自分本位なのか相手のためなのかの違いをしっかり見極めれていないからこういったことが起こるんだろうな。



皆大変なんだという人は自分も心配されたいから

ここに本質があると思うんです。

 

相手の悩みを自分目線で見ているから皆大変だよと言う言葉が出てくる。

この言葉の意味の裏を返せば自分も大変なんだ、自分の苦労も理解されたいって思いからなんじゃないかと思います。

 

つまり相談に乗れる器ではない、もしくは状態ではないんだろうからでしょう

 

みんな大変なんだよっていう表現は、相手を否定しているようにも捉えられるので意地悪にも感じますし、その相手自身にも余裕がないからなんだなと思う。

 

皆大変なんだっていう人って遠回しにあなたの大変だと感じている相談には乗れないよって意味なんですよね。

だから初めから相談に乗れる余裕が今の私にはないと断ってくれた方が分かりやすい。

 

こういった言葉を言ってくる人にじゃあなたはどれほど大変なのか聞くとすごく饒舌に愚痴をこぼすわけです。

そうでなくても相手の辛さを理解できないほど視野が自分本位になっていて、他人の辛さや大変な事情を受け入れられないんでしょう。

 

今”私”が辛いと思っていることを話しているのに、その他大勢が~、みんなが~、私だって~と話の主体を変えてくる人は、相手の事を考えること自体ももしかしたらめんどくさいんだろうなとも思います。

貴方の問題や辛さを理解するのがめんどくさいから『みんなもつらいんだよ』なんて言ってまとめてしまっているようにも感じる。

 

『みんな大変なんだ』『私もつらい』と言葉を交えてくる人にはあなたの大変な思いは理解されにくいと思うので話すことをやめることをおすすめします。

マイナス同士がただぶつかり合っているだけなので無意味だし、ダメージも大きいように思う。

 

それよりも今大変なんだとこぼしたときに”どうしたの”と話を聞いてくれる人に話す方が価値的です。

 

 

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